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やぶにらみ民俗学

1965年という時代②

こんにちわ。昨晩も雪がすごかったですねえ。最近車を動かしていなかったこともあって、車が埋まっていました。掘り出すのに20分ぐらいはかかりました。これが岩見沢の実力です(笑)。

早朝の更新がほぼ日課のようになっていますが、今日は朝から雪かき→歩くスキーの練習→店番という一連の流れがありまして、今に至っております。


さて、昨日は久々の長文となってしまい、まだまだ書き足りないこともあったので、残りの部分は今日廻しにしてしまいました。

内山節氏の『なぜ日本人はキツネにだまされなくなったのか』。歴史哲学的にポストモダンを語る上で「キツネにだまされた話」という伝承の生成と消滅をその検証材料とした、とても興味深いお話でした。

いわゆる「民俗学衰退論」は、民俗学がこの「ポストモダン」という時代を扱いきれなかった、あるいは扱う視点を持ちきれていなかったという現状から端を発したものだと思います。確かに「衰退論」を提唱された方をはじめとする年代の方々を中心として、一時は学会を巻き込んだ一大論争にまで発展しましたし、その残り火は現在も燃えています。半ば自嘲的な言い回しも見られ、どこまで本気なのかと疑ってしまいたくなるぐらいです。

ここで考えなければいけないのは、「ポストモダン」の時代に生きる我々が、近代知として成立した民俗学の方法をもって「ポストモダン」を論じることができるか、という命題です。

つまり民俗学を土俗学といって、モダニズムの中で失われていく日本の古き姿を求めていた柳田國男が見た日本とは、江戸時代末期の風景が残る日本でした。そしてその弟子たちが求めた原風景は明治・大正であったのです。当然その弟子の弟子、あるいは弟子の弟子の弟子ぐらいの年代となる我々が求め、そして目にする日本の姿とは大正・昭和の時代であり、戦争などの国難を経て高度経済成長を果たした日本、その現在の姿なのです。

江戸時代の姿を見て形成された方法論が、平成の世から昭和を見る視点に有効に活用できるものかどうか?答えは否、です。

現在に生きる我々には、現在に生きる中で培ってきた世間を見る目があり、その立ち位置から大正・昭和の日本の姿を見るという方向性をもつこととなり、当然柳田氏が持ちえた近代の問題意識とは遠くかけ離れたものになるのは、仕方がないことなのです。

確かにポストモダニズムにおける発展主義は、日本各地に残る古き生活を一変させ、均一化させてきたでしょう。しかしだからといって、生活そのものは存在し、生活する人間は存在していることに変わりはありません。

であるからこそ、「今の日本には民俗学が求める伝承的生活は存在しない」といった時、その人がいう「民俗学」とはいつの時代にその人の知として形成された「民俗学」であるのかということに注意をしなければならないのです。

めまぐるしく移り変わり、高度な情報化社会の中で生活の均一化が進む現代で、何を問題意識として人々の生活を見ていくか。そしてのその生活はどのような歴史的展開を経ながら現在そこにあるのか。その問題意識がもっとも重要なのではないでしょうか。

「柳田が今の日本を見たら・・・」なんて物言いがありますが、まったくのナンセンスです。なぜならば、本来彼自身が思考した知の方向性は、常に「眼前の事実」にあったからです。であるからこそ、その「世間を見る目」を常にもっていなくてはいけませんし、「衰退」どころかまだまだ「発展」しうる学問として、民俗学は存在していると思うのです。

以上です。長々と書いてしまいましたorz

ここまでお付き合いいただいた方、ありがとうでした。


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BABEL

1965年生まれの僕は、現在までの人生を近代化の終焉、脱近代化とポストモダンの流れのなかに見出すのにほとんど違和感がありません。”キツネ”が”みえなく”なったのは、それ以前だったのですね。民俗学がいつでもその時代に切り込むことができるというのは、僕もそう思います。ただ、ポストモダンのこの時代には、すでに”知”の領域は意味をなさないのでしょう。映画”BABEL”では、国境、夫婦、親子、音のある世界と聞こえない世界、異文化、異郷など、あらゆるボーダーがテーマになっていますが、この映画の持つような雰囲気に民俗学がどんな思考で踏み込めるでしょうか(グローバリズムという幻想を共有しているローカルな我々...)。

たしかに、確かに。これだけインターネットを介した知識の流動化・平板化した時代において、本当の「知」とはいかなるものか、ということを再確認しなければいけない時代に差し掛かっているのだと思います。「知っている」ことと、「体得している」あるいは「活用できる」ということは別次元の話で、「知」と「体」の関連性もまた問われなければいけないでしょうね。

identity in floating world

最近の研究では、音楽を聴くことによって、人の男性ホルモンが、男性では減少し、女性では増加する、ということです。つまり、男女とも中性化する、と。
”文字のない文化はあっても、音楽のない文化はない”と言いますが、太古から人は音楽によって、人の無意識や社会をコントロールする術を知っていたということでしょうか。
ただの絶叫マシン(これもひとつの文化)と化しているバンジージャンプが、ある文化にとっては通過儀礼であるように、”装置や仕掛け”というものは、その文化の文脈のなかで意味を持つものですね。
人が自身の固有の文化のアイデンティティーのなかで、伝承された”知と身体”の智慧を体得できなければ(実はまだ少数だと思いたいのですが)、グローバル化する世界と対峙するのに、自身のおぼつかないバランス感覚だけ、というのは心寒いことです。

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