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つれづれの記

1965年という時代

おはようございます。

さて、最近読んだ本の中から面白かったものを。内山節氏の『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』です。

タイトル買いしました


タイトルで思わず買ってしまいました。

内山節氏といえば哲学者というイメージが強いのですが、その方がこんなタイトルで本を出されているとは驚きです。哲学的に伝承文化を語るのか?という期待もありました。

まず命題の起こりは、内山氏が一年の大半をすごしておられる群馬県上野村で聞いた話で、どうやら1965年ぐらいを境に「キツネにだまされた」という話を聞かなくなったからだというのです。なぜあれだけ聞いた「キツネ話」がその年代を境に聞かれなくなるのか、1965年という時代はどういった時代なのか、一般的な歴史学からみえない歴史をつかみなおすことで、「私たちの現在」を考えていこうという趣旨で書かれた、とあります。

まずキツネが人間をだまさなくなった理由としてそれは①高度経済成長における科学の時代の到来、②都市開発と人工造林の増加による森の衰退、③自然から切り離された日本人の感受性の衰退、の大きく3つが提示されています。そしてそれらはそれぞれバラバラに存在しているのではなく、連関しているのです。①→②→③という論の展開によって、その連関が述べられています。

なぜ日本人は自然から切り離されてしまったのか、そしてなぜ自然への感受性を失ってしまったのか。

内山氏の歴史哲学的な思考はこう続きます。つまり、人間の主観的・客観的という感覚は、それ自体がその人間が生きた時代という「包まれているもの」によって形成されているものであり、究極的な主観・客観は存在しない。そしてその感覚を持って歴史を見た場合、それは普遍的な事実として存在しているのかどうか。大きな歴史の中で、その時代に生きたことで形成された主観をもって選択した「歴史的事実」の裏には「みえない歴史」、あるいは「選ばれなかった歴史」が存在しているのではないか。そしてその「みえない歴史」は全国いたるところに存在し、その地域、その村、個人の集合知として存在しているというのです。

その集合知こそが、村の人々が自然・環境・時代によって形成してきた主観の寄せ集めであり、それを共有の歴史として伝承してきたことで残ってきた「キツネ話」が、発展至上主義の現在において「みえない歴史」として埋没していっているのではないか、現在の時代では形成されなかった「知」として存在していると述べています。そしてそこにはかつてあった人間と自然とのコミュニケーションによってはぐくまれてきた知性喪失への危機感がみえているのです。

大変面白い内容で一気に読みきってしまいました。だいぶん長文になってしまったので、この内容について自身が感じたことについてはまた明日に。

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