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つれづれの記

空白の穴埋め③

おはようございます。

10月6日早朝、奈良の酒友たちと別れて私が向かったのは、かばん屋さん。
「信三郎帆布」http://www.ichizawashinzaburohanpu.co.jp/cgi-bin/index.cgiというお店です。

京都でも有名なかばん屋さんですが、人気が高く午前中にはその日の分が売切れてしまうという店で、開店前から行列ができるほどだというのです・・・・。まだ酔っていたんでしょうねえ。勢いで京都へ向かったのです。開店は9時から。私が着いたのが7時。まだそんな早くから誰も並んでいるはずはなく、近くのコンビニで立ち読みしながら時間を潰し、一番初めに並んでカバンをゲットしました。その余韻に浸りつつ、奈良へ戻ってスーツに着替え、学会の会場である京都にトンボ帰りです。何やっているんだか・・・?

日本民俗学会第一日目は講演会とシンポジウム、会員総会、懇親会です。会員総会の場では、日本民俗学会奨励賞の発表がありまして、35歳までの年齢制限があったので昨年度、恥ずかしながら応募していたのですが、なんと見事!
いただいてしまいました。久しぶりに賞状というものを授与され、顔がこわばってしまいました。

翌日は一般発表。以前からこのブログでもお話していた岩見沢の開拓者・辻村直四郎氏のことについて、発表いたしました。内容の要旨は「つづき」の設定にしてありますので、興味のある方はどうぞご覧下さい。

発表後はしばらく会場で他の人の発表を聞いた後、京都駅から「はるか」に乗って関西国際空港へ。千歳に着いたのが午後9時。街灯のない恐ろしく暗い道をトラックにあおられながら家に帰りついたのが10時半。翌日からすぐ仕事だと思い、ご飯も食べずに寝てしまいました。

それにしても、ハードなスケジュールでしたが、一応自分がしたいと思ったことは全てやり終えてきましたので、充実した三日間でした。
『馬追原野』を読む―北海道開拓伝承の在りか―

『馬追原野』は小田原からの北海道開拓者であった辻村直四郎の開拓日誌を基に、その娘である辻村もと子が小説化したものである。昭和17年(1942)には樋口一葉賞の第一回受賞作品に選ばれている。
辻村直四郎は作中で「秋月運平」となり、明治24年(1892)に大きな期待を持って生まれ故郷である小田原を離れ、処女地北海道に渡ってきた。その期待とは大地主となって農業をすることであり、その若いエネルギーを燃焼させる場所として官有地の払い下げを願うのであった。しかしながら何の身分保障も持たない一青年に土地は払い下げられず、札幌の知り合いであった馬具商人の開拓地であった馬追原野(現夕張郡長沼町)に、開拓支配人として入地するのである。馬追原野では、同じように内地から入植してきた人々がすでに開拓を開始しており、その支配人として入地した秋月運平一行は、生まれ故郷の一村分もある土地を切り開きながら燕麦・馬鈴薯・大根・ニンジン・牛蒡などを植え、掘立て小屋を建て、自分たちのムラを作っていくのである。そしてついに秋月運平は自分の土地を手に入れる。それが幌向川端に広がるシュプンペツ、現在の岩見沢市志文町であった。直四郎はこの「志文」という地名の名付け親といわれ、辻村もと子の作品である『早春箋』には「自分は土に志したが、自分の子孫には文に志すものが現れてほしい」という願望がもとになっていた、と記されている。
辻村もと子は樋口一葉賞受賞時に『馬追原野』について、「文学への情熱と、北海道の土の匂いと」が作者を駆り立て、「明治初年の開拓者だった父の意思」が作品へと昇華されたという。そして「開拓者の志を、いつまでも忘れないで守りつづけ」ることを願ったのである。その「志」を実践していく過程としてなされた「開拓」という作業が、文学のなかでどう表現され、そしてそれが民俗学的視点によることでどのような伝承性をもった行動として検証できるのか。発表者が近年の研究テーマとしている「「記録化された伝承」の定義とは何か」という一事例として、「北海道開拓文学」を材料に考察してみたい。
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